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足尾銅山の大争議(大正10年4月2日)から100年、争議解決案への反発で知識階級排斥の火の手!

足尾銅山の大争議(大正10年4月2日)から100年、争議解決案への反発で知識階級排斥の火の手!

今から100年前の大正10(1921)年、全国の炭鉱や銅山で大争議が発生している。友愛会が指導したものに北海道・夕張炭鉱争議、栃木県・足尾銅山争議などがある。

1921(大正10)年2月当時、北海道炭鉱汽船会社は夕張区内に十有余カ所の鉱区を持ち、坑夫1万7千人を使用していた。大正10年2月に二割に及ぶ賃下げを行い、これを契機に坑夫1万名がストライキに入った。麻生久(写真はウィキペディア。東大卒後1919年友愛会に入る)らが現地に入り、3月7日に争議は解決した。しかし、警察との乱闘、幹部の逮捕などにより組織は壊滅している。『総同盟50年史』は、「石炭資本家の計画的、組織的攻撃は、営々ときづきあげた坑夫総連会の北海道の組織をつぎつぎ破壊していった」と記している。

この頃、全日本坑夫総連会の最大拠点である足尾銅山においても大争議が勃発している。足尾銅山は明治時代に「この世の地獄」と喧伝され、坑夫は劣悪な状況下にあった。明治40年、大正8年、9年と大争議が闘われていたが、1921(大正10)年当時、足尾では全山8千名の労働者の内、2千名が坑夫総連合会芦尾連合会に組織されていた。

争議は団結権の承認、最低賃金の確認などを求めて始まり、3月16日に要求を提出。30日には友愛会本部から麻生久が来援、4月2日に足尾代表者連合会は8カ条の要求を提出し、7日から怠業に入った。会社側は8日に337名の大量馘首を発表し、対抗した。10日には棚橋小虎・赤松克麿・加藤勘十らが来援して馘首反対闘争に入り、12日には馘首者家族大会を行い示威行進に入った。結局、争議は4月18日に解決したが、馘首を認めた争議解決案に一部の組合員が反発し、しこりを残した。『総同盟50年史』は、「この解決条件がサンジカリストの不満を買い、知識階級排斥の火の手をあおった」と記録している。

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