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2024年度から登場する新紙幣1万円札の表の図柄に渋沢栄一が決まり、いま注目が集まっています。渋沢栄一は数多くの企業を設立し、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。
しかし、一方で友愛会・総同盟(現在の連合)とも「ゆかりの人」であり、友愛会系労働組合の歴史資料館である当歴史館には、渋沢栄一の肖像画や手紙が常設展示されています。
渋沢栄一と鈴木文治・友愛会の関係は、大正初期に米国で排日問題が起こったことにより始まります。『渋沢栄一伝記資料』(渋沢史料館)の大正4年6月1日の記述に、「是ヨリ先、アメリカ合衆国カリフォルニア州ニ排日問題起ルヤ、シドニー・エル・ギューリック等ノ請ニヨリ、米国労働大会ヘ代表ヲ派遣センガ為メ、栄一、安部磯雄・添田寿一ト謀リ、当会会長鈴木文治ヲシテ列席セシムベク尽力ス。是日当会主催全国労働大会ニ出席シ送別演説ヲナス。爾後当会並ニ鈴木文治ニ対シ絶エズ激励援助ヲ与フ。」とあります。
また、大正4年6月17日には「当会ノ鈴木文治及ビ吉松貞弥ノ両名、労働代表者トシテ渡米スルニ際シ、是日栄一、之ヲ兜町事務所ニ招キテ送別会ヲ催ス。」とあり、渋沢栄一が鈴木文治と吉松貞弥(友愛会員)のために送別会を開いたことが記述されています。
当歴史館が所蔵している渋沢栄一直筆の書簡はこの時期のもので、鈴木文治とともに米国に渡った吉松貞弥宛の送別会案内状の手紙です。なお、この書簡は吉松貞弥遺族より渋沢史料館へ寄贈されるところを、渋沢史料館のご配慮で当歴史館に寄贈されたものです。
公益財団法人連合総研(連合総合生活開発研究所)の「連合総研レポート」2019年4月号は、特集「労働運動家とその思想―現代にどう活かすか」を組んでいます。
掲載されているのは「日本労働運動史における高野房太郎の足跡と役割―日本労働組合運動の父―」(小松隆二著)、「友愛会から総同盟へ―鈴木文治と松岡駒吉の軌跡」(間宮悠紀雄著)、「対立を超える“共助”の理想を追い求めた労働運動家―賀川豊彦とその生涯」(伊丹謙太郎著)の3本の論文です。
鈴木文治・松岡駒吉・賀川豊彦は、当歴史館ゆかりの人として展示室に肖像画を飾っています。また、高野房太郎は労働組合期成会の創立者として、当館常設展で展示・紹介を行っています。さらに論文「友愛会から総同盟へ」は、当館関係者の寄稿です。
このため「連合総研レポート」2019年4月号の紹介をさせていただきます。同号表紙と「特集解題」(連合総研主任研究員 麻生裕子)です。3つの論文に興味・関心のある方は、連合総研(連合総合生活開発研究所)までお問い合わせください。
連合総研(連合総合生活開発研究所)
〒102-0074 東京都千代田区九段南2-3-14 靖国九段南ビル5階、℡03-5210-0851
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友愛労働歴史館は7月4日から企画展「協調会結成100年―友愛会・総同盟との関係を見詰める―」(2019.7.4~12.24)を開催いたします。その準備の一環で4月5日(金)、桜咲く東京・北区の飛鳥山公園にある渋沢史料館に行ってきました。
協調会は大正8(1919)年に「労使協調のための研究調査・社会事業を行う財団法人」として設立され、1946(昭和21)年に解散しています。渋沢栄一はその協調会の副会長を務め、友愛会・鈴木文治とは1915(大正4)年からの交流が伝えられています。また、協調会と渋沢栄一は、野田醤油労働争議(1927~1928年)を調停したことでも知られています。友愛労働歴史館は渋沢栄一をゆかりの人とし、展示室に渋沢の肖像画を飾っています。
渋沢栄一は埼玉県深谷市の生まれで、一橋慶喜の家臣として幕末に活躍。明治維新以後は「民間の立場から約500社にのぼる株式会社、銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間外交、社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました」(案内パンフより)。
渋沢栄一に興味のある方はぜひ一度、飛鳥山公園にある渋沢史料館を覗いてみてください。隣接する旧渋沢庭園には国指定重要文化財・青淵文庫と同・晩香廬があり、同じ飛鳥山公園には紙の博物館、北区飛鳥山博物館もあります。案内パンフ(一部)を参照してください。
本4月1日、新しい元号が「令和(れいわ)」と決まりました。友愛労働歴史館がある友愛会館は明治27年のユニテリアン教会・惟一館が前身ですから、明治・大正・昭和・平成と続き、令和(5月1日)で5代目となります。
ところで当歴史館が所蔵している松岡駒吉(クリスチャン、総同盟会長、全繊同盟会長、日本労働会館理事長、衆議院議長など)の肖像画には、「2601」の制作年が記述されています。最初、見たとき分かりませんでしたが、すぐに皇紀2601年のことと思い至りました。
皇紀とは「日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当たる)を元号して1872年(明治5)に定めたもの」(広辞苑)で、皇紀2601年は昭和16年・西暦1940年に当たります。
それにしても松岡駒吉は、なぜこのような肖像画を描かせたのでしょうか。長く会長を勤めていた総同盟(戦後の同盟、現在の連合)は、前年(昭和15年)7月に政府の圧力で解散に追い込まれています。特高警察の監視下にあったとされる松岡駒吉、おそらく彼は遺書・遺影の意味で、この肖像画を家族に残したのでしょう。少し寂しげで、厳しい表情ですが、度重なる政府・警察の弾圧にも屈することなく、労働運動一筋に生きた男の強さが感じられ肖像画です。
明治22(1889)年、福澤諭吉や金子堅太郎らの招聘により来日した米国ユニテリアン協会のクレイ・マッコーレイ牧師らは明治27(1894)3月25日、東京・芝の地にユニテリアン教会・惟一館(設計・ジョサイア・コンドル)を建設し、標語「至誠・正義・雍穆」を掲げ、自由基督教の活動拠点としました。
ユニテリアン教会は仏教徒を教会長に招き、ブッダ・孔子・ソクラテス・イエスの「四大聖人」画を飾ったとされています。
ユニテリアン教会のメンバーは、後に教会を離れ、①政治・社会運動の分野、②教育や文学、著述の分野に進んでいきました 。①政界に進んだメンバーに小山東助、星島二郎、永井柳太郎、内ヶ崎作三郎、安部磯雄、河上丈太郎、大山郁夫がおり、労働運動に進んだメンバーに鈴木文治、松岡駒吉、市川房枝がいました。
また、学校教育・文学の分野では内藤濯、今岡信一良、岡田哲蔵、帆足理一郎、原一郎、工藤直太郎、三並良、会津常治、武田芳三郎、坪田譲治、吉田絃二郎、沖野岩三郎、一条忠衛、加藤一夫、岸本能武太らがいました。
彼らの進んだ道・方向、思想・立ち位置は、様々であり、幅広いものがあります。しかし、ユニテリアン精神を現実社会に実現しようとした点では共通とされています。それはユニテリアン・ミッションと呼ばれ、「自由の拡張」「社会問題の解決」でした。その拠点がユニテリアン教会・惟一館でした。
惟一館では明治31(1898)年、安部磯雄・村井知至らのユニテリアンにより社会主義研究会(後の社会民主党)が創立されました。また、大正元(1912)には鈴木文治(ユニテリアン教会職員)により友愛会(後の総同盟、同盟。現在の連合)が結成されました。このため惟一館(現在の友愛会館)は、日本社会主義運動と日本労働運動の発祥の地とされています。
60年前の1960年に起きた三井三池争議は、日本労働運動史に残る大争議であり、また評価の分かれる争議でしょう。1960年3月17日は、三池労組の過激な階級闘争主義を批判した良識派により、三井三池炭鉱新労組が誕生した日です。
支援要請を受けて三池新労を支援した全労(全日本労働組合会議。後の同盟)は、1968年に刊行した『全労10年史』で「三池争議は民主的労働運動と左翼闘争主義の天王山」と記し、「狂気」「不義の闘い」「特異な性格」と批判しています。
また、日産自動車で民主化闘争を行った故山口義男はその著『ひとすじの道』(1980年)で、三池争議の特異性は「三池を包む“宗教的雰囲気”であった。大教祖向坂呪文は絶対であり、狂信的なマルクス教徒による、革命成就への祈祷と祈りは、大牟田の山々を、日向に連なる高千穂の峰をも及ばぬ神秘さで包んでいた」と批判しています。
さらに2014年3月9日の日経新聞「熱風の日本史」は、三池争議について「社会主義革命の実験闘争」「三池、闘争至上の誤算」「闘争・社会革命型労働運動の挽歌」と記しています。
三池争議から60年、争議に関する客観的で合理的な研究が進むことを期待したいものです(写真は三池新労を支援した全労の結成大会)。
2019年3月15日は労働運動家・政治家・評論家として活躍した和田春生(1919.3.15~1999.10.17)の生誕100年に当たります。友愛労働歴史館はこれを記念し、開催中の企画展「民社党結党60年―勤労国民政党の旗を掲げて―」(2018.1.7~06.28)の一部に、本日より「和田春生」コーナー(2019.3.15~4.15)を設けています。
和田春生(1919.3.15~1999.10.17)で特筆すべきは、①総評の結成、②全労の結成、③三池争議の指導でしょう。船乗り、航海士の和田は太平洋戦争で何度も乗船が撃沈され、漂流しています。戦後、海員組合に入り、1950年に総評結成準備会へ出向し、「基本綱領」「規約」を分担執筆するなど、民主的労働組合の総評結成に全力投球します。
しかし、その後の総評の容共化、国際自由労連加盟否決では主流派を厳しく批判。1952年秋の電産・炭労争議の後は、その指導方針を批判した「4単産声明」を取りまとめます。海員組合は全繊同盟、全映演とともに総評を脱退、1954年に再建総同盟とともに全労会議を結成。和田春生は滝田実議長(全繊同盟)とコンビを組み、10年間書記長を務めます。
1960年の三井三池争議では、単なる解雇反対闘争を「社会主義革命の実験闘争」へと変容させた「向坂イズム(労農派マルクス主義)」を批判。闘争至上主義で突っ走る三池労組に対し、支援を求めてきた民主化グループを支えます。
全労を理論面、行動面を支えた和田春生に対し、後に滝田実議長は「あまりに理論が鋭く透徹している」と評しています。和田は『労働運動入門』『労働運動の新時代』などを著し、民主的労働運動の発展に貢献しました。
1969年、民社党公認で衆議院議員に当選。1974年には参議院議員となり、政治家としても活躍。政界引退後は政治評論家・ニュースキャスターとしても活躍しています。1990年10月17日に死去。享年80歳。