友愛労働歴史館は先達者のメッセージを読み取り、再発信します!

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〒105-0014 東京都港区芝2-20-12 友愛会館8階

ニュース

日本農民組合総同盟(戦前の農民団体)の資料を探しています!

戦前の総同盟(友愛会が改称。戦後の同盟。現在の連合)が関わっていた農民団体、日本農民組合総同盟(大正15年結成)の資料を探しています。

友愛労働歴史館は友愛会・総同盟系の歴史資料館として、①友愛会・総同盟から同盟までの民主的労働運動、②戦前の社会民衆党・社会大衆党から戦後の日本社会党・民社党までの民主的社会主義運動、③ユニテリアン教会惟一館ゆかりの社会運動、に関する各種資料の収集・管理を行っています。

しかし、日本労働会館(旧ユニテリアン教会惟一館。総同盟本部があった建物)は、1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で焼失し、戦前の資料を全て失っています。このため当歴史館は日本農民組合総同盟に関する資料を所有していません。日本農民組合総同盟やその関係者(例えば埼玉の松永義雄)に関する資料はお持ちの方は、ぜひ友愛労働歴史館までご一報ください。原則、写真や紙資料はお借りし、コピーを作成した後、返却いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

所蔵写真で見る第二インター議長・ヴァンデルベルト氏の来日、1930(昭和5)年9月23日!

友愛労働歴史館のある友愛会館の前身は日本労働会館で、さらにその前身は明治27年に建設されたユニテリアン教会・惟一館です。惟一館(日本労働会館)は1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で焼失し、友愛会以来の労働運動・社会運動に関する資料は全て失われました。

現在、友愛労働歴史館が所蔵する資料は戦後、個人・団体から寄贈されたものが中心です。所蔵写真の一つに1930(昭和5)年9月23日、社会民衆党本部前で来日中のベルギー社会党委員長・第二インター議長のヴァンデルベルト氏夫妻を歓迎する1枚があります。

写真にはヴァンデルベルト氏夫妻と安部磯雄、赤松克麿、小池四郎、赤松常子、赤松明子、阿部静枝・阿部温知夫妻らの社会民衆党幹部が写っています。総同盟の松岡駒吉(総同盟会長、衆議院議長など)も前列にいます。

社会民衆党(安部磯雄委員長・片山哲書記長)は友愛会・総同盟が支援した無産政党で1926(大正15)年に結党し、総同盟から鈴木文治・松岡駒吉・西尾末廣らが党役員に就任しています。社会民衆党はその後、中間派無産政党と合同し、社会大衆党へと発展。戦後は日本社会党(右派)・民社党へと続く、民主的社会主義政党の源流です。

社会民衆党機関紙「社会民衆新聞」の当時の記事「社民館の建設とその維持に就て」には、「和田操君の好意と努力によつて完成」したと記されています。和田操とは和田印刷所などを経営していたクリスチャンで社会民衆党員、東京市議などを務めた人物。戦後、民社党から衆議院議員を5期務めた和田一仁(1924.7.30~2010.12.8。クリスチャン、民社党副書記長、西尾末廣秘書など)の父です。

鈴木文治が内外社会問題調査所を設立し、『内外社会問題調査資料』を刊行、1930(昭和5)年8月!

友愛会創立者・鈴木文治は90年前の1930(昭和5)年2月、衆議院選挙に大阪4区から社会民衆党公認候補として出馬し落選。その後、第14回国際労働会議の日本代表として渡欧し、ILOの会期中副議長を務め、8月に帰国している。

帰国直後、鈴木は内外社会問題調査所(協調会館内)を設立し、『内外社会問題調査資料』(発行編集兼印刷人亀井貫一郎)を刊行する。印刷所は和田操(クリスチャン、社会民衆党員、東京市議会議員、安部磯雄や片山哲に師事。民社党衆議院議員・和田一仁の父)の和田印刷所。

内外社会問題調査所は「創立趣旨」で、「資本と労働との関係を中心として発生する種々の社会問題を主とし、産業、経済、政治その他の各方面に亘って、世界各国の状勢を、最新の材料に基いて調査研究すると共に、その調査資料を普く迅速に同好の氏に頒布することにより、我が国の国際的地位を正確に認識するの一助たらしめたい」と記している。

また「目的」で、「本所は内外社会問題の調査をなし、次の諸項の如き事業を行う」として、「1.内外の社会問題並に社会運動の調査研究、2.我国の社会問題並に社会運動の海外紹介、3.内外の政治経済社会其他時事問題の批判紹介、4.調査資料の発行並にパンフレットの刊行」を挙げている。

『内外社会問題調査資料』第1号は1930(昭和5)年8月に非売品として刊行され、1944(昭和19)年4月の第603号まで刊行されている。鈴木文治が関係するこの種の出版物が、戦時下の1944(昭和19)年4月まで刊行されていることに驚く。

『内外社会問題調査資料』は1999年に㈱皓星社から復刻されている。

友愛会関東大会で平沢計七の弾劾決議、平沢ら純労働者組合を結成、友愛会最初の組織的分裂!

1920(大正9)年8月31日に開催された友愛会第1回関東大会で、城東連合会会長・平沢計七(1889~1923)は左派アナキストグループにより弾劾された。

平沢計七は鈴木文治友愛会会長に近い穏健派で、友愛会本部の出版部長として機関誌『労働及産業』や『友愛婦人』などの編集を担当していた。しかし、大学出でインテリ急進左派の麻生久・棚橋小虎らと対立し、当時は城東連合会会長を務めていた。

この頃、友愛会内外でサンジカリストが急速に勢力を拡大しており、城東連合会にも進出していた。彼らは穏健派の平沢計七を弾劾し、査問委員会にかけた。平沢はその後、友愛会城東連合会の組合員約300名を率いて脱退し、純労働者組合を結成した。純労働者組合の結成は、友愛会創立以来、最初の組織的分裂であった。

平沢計七が自らの組織を「純労働者組合」と命名したところに、労働者・平沢計七の想いが伺える。『総同盟50年史』第1巻は、純労働者組合の「宣言」に言及し、「宣言に、『宣伝、執行等に知識階級の力を尊重なすものであるが、総ての決議権は純労働者自らが握る』と表明したことは、平沢らが麻生ー棚橋ラインにいかに煮湯を飲まされたかをもの語っている」と記述している。

平沢計七はまた、労働劇の先駆者・劇作家としても知られており、彼の作品をまとめた『一人と千三百人/二人の中尉・平沢計七先駆作品集』が、講談社文芸文庫の一冊として本年4月に出版されている。平沢計七の研究者・大和田茂氏が「解説」、「年譜」、著者目録」を担当している。

総同盟が惟一館(旧ユニテリアン教会)を買収してから90年、1930年8月6日!

今から90年前の1930年に総同盟(友愛会の後身、後の同盟。現在の連合)は、東京芝の惟一館(旧ユニテリアン教会。現在の友愛会館)の土地と建物を買収しています。

友愛会誕生の地であるユニテリアン教会・惟一館は、福澤諭吉らが招聘した米国ユニテリアン協会が1894(明治27)年に建設。この惟一館で1912(大正元)年8月1日、ユニテリアン教会職員・鈴木文治により友愛会が創立され、ここは日本労働運動発祥の地となりました。友愛会は大正10年に総同盟へと発展し、戦前期の日本労働運動の本流となります。

惟一館は米国ユニテリアン協会の日本撤退により1924(大正13)年頃には人手に渡ってしまいました。そこで総同盟は惟一館を買収することとし、1930年8月6日に東京建物株式会社との間で売買契約書を取り交わしました。買収金額は当時のお金で4万円。総同盟は組合員カンパにより3万7358円を集めましたが、その一部は日本労働会館建設後援会(安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造ら)からの寄付金でした。後援会が寄付した9907円は、現在の貨幣価値にすると約5000万円位でしょうか。

彼らの資金援助もあり、惟一館の土地(幕末は薩摩屋敷)と建物(ジョサイア・コンドル設計)は総同盟のものとなりました。総同盟は土地・建物の管理のため1931(昭和6)年に財団法人日本労働会館を設立します。これにより日本の社会主義運動(明治31年、社会主義研究会)と労働運動の発祥の地である惟一館(現友愛会館)は、90年後の現在も一般財団法人日本労働会館に引き継がれています。

友愛労働歴史館の紹介スライド「ようこそ友愛労働歴史館へ」(2020年版)をプレゼントします!

友愛会系労働組合の歴史資料館である友愛労働歴史館は、友愛会を創り育てた人たちや友愛会ゆかりの人々・団体を取り上げた展示会活動を行っています。

友愛会関係者に鈴木文治、松岡駒吉、西尾末廣、平沢計七、賀川豊彦、市川房枝、赤松常子、野坂参三らがおり、ゆかりの人に渋沢栄一、安部磯雄、新渡戸稲造、吉野作造、河合栄治郎、阿部静枝、キャロライン・マクドナルドらがいます。

また、当館の前身がユニテリアン教会・惟一館(現在の友愛会館)であることからユニテリアン教会ゆかりの人々として福澤諭吉、クレイ・マッコーレイ牧師(米国ユニテリアン協会)、村井知至(牧師、英語学者)、岸本能武太(宗教学者)、戸板関子(戸板学園創立者)、永井柳太郎(政治家)、内ケ崎作三郎(牧師、政治家)、沖野岩三郎(牧師、小説家)、河上丈太郎(政治家)らがいます。

現在、猛暑と新型コロナウイルスのため外出もままならず、当歴史館へのご来館ご見学は大変です。しかし、当館紹介スライド「ようこそ友愛労働歴史館へ」を見ることで、ユニテリアン教会・惟一館の歴史や友愛会系労働組合の理念・活動、そして友愛会を支えた人々などについて理解を深めることができます。2020年版紹介スライド「ようこそ友愛労働歴史館へ」(スライド23枚、PDFデータ)をご希望の方は、当歴史館にEメールでご一報ください。友愛労働歴史館 Eメール yuairodorekishikan@rodokaikan.org

 

企画展「総同盟から総評へ」のポイント、総評はなぜ国際自由労連ICFTUに加盟しなかったのか!

友愛労働歴史館は現在、企画展「総同盟・産別会議から新産別・総評へ―1946~1950年の労働運動―」(2020.7.6~12.8)を開催しています。戦後の日本の労働運動はGHQによる民主化、労働運動の解放によりスタートし、1946(昭和21)年に総同盟(日本労働組合総同盟)と産別会議(全日本産業別労働組合会議)が誕生します。

産別会議は戦後労働運動を主導しますが、1947年の2.1スト失敗や同4月の参議院選挙・衆議院選挙での日本共産党の敗北を契機に、共産党の組合支配に反対する民主化運動が起きて1949年12月に新産別、1950年7月に総評(日本労働組合総評議会)が結成されます。

本企画展は総同盟・産別会議の結成から新産別・総評の結成までの5年間(1946~1950)を中心に日本労働運動について解説していますが、ポイントの一つは総評の国際自由労連ICFTU加盟問題です。第二次世界大戦後、世界は西側自由主義国と東側共産主義国が対立し、「冷戦」状態にありました。1950年には北朝鮮が韓国に武力侵入し、朝鮮戦争が勃発しています。総評結成当時の国際労働運動も東側の世界労連WFTUと西側の国際自由労連ICFTUが対立しており、総評は西欧寄りのICFTU加盟を確認して結成されました。

しかし、1951年の第2回大会で総評は「平和4原則」を確認してICFTU加盟を否決し、「ニワトリ(親西側)からアヒル(反西側)」になったと評されました。要因は色々考えられますが、直接には当時ICFTUに加盟していた国労と日教組が反対したからとされています。「なぜICFTU加盟に反対するのか」と不思議がられたようです。

その後、総評からICFTU系の組織が離脱して全労・同盟(日本の中央労働団体で唯一、国際労働組織に加盟)を結成するなど、いわゆる労働4団体(総評・同盟・中連・新産別)の時代に入ります。総評は日本最大の中央労働団体として屹立し、その影響力から「昔陸軍、今総評」と呼ばれました。

結成から40年後の1989年、総評はICFTU加盟を決定し、連合(総評・同盟・中連・新産別が統合)に合流します。第1回大会で加盟を確認し、第2回大会で加盟を否決して特殊日本的労働運動を歩んでから40年、ようやく総評は原点回帰したのです。

 

友愛会創立(大正元年8月1日)から108年、その3つの意義を考える!

本日(2020.8.1)は日本労働運動の源流とされる友愛会が、東京・芝のユニテリアン教会・惟一館(現在の友愛会館)で創立されてから108年となります。

友愛会系労働組合などで組織する「友愛会創立を記念する会」(会長・高木剛)は毎年8月1日、友愛会創立の意義を顕彰するための記念式典を開催してきましたが、今年は新型コロナウイルスのため中止となりました(有志により同日、友愛会創立を記念する集いを開催)。

1912(大正元)年8月1日、ユニテリアン教会・惟一館で鈴木文治(写真)ら15名により創立された友愛会(現在の連合)は今日、3つの意義を持っていたと理解されています。それは①日本労働運動の源流とされる労働団体であること、②大正デモクラシーの先駆となったこと、③ユニテリアン・ミッションを具現化したこと、です。

友愛会が①日本労働運動の源流とされることは、友愛会が現在の連合にまで続く労働運動の出発点に位置しているからです。また、友愛会の理念が「友愛的・人格向上的組合主義」(ロバート・ホクシー教授)であることも注目されます。「労働者の人格の向上」を掲げる労働組合は現在も存在しており、例えばUAゼンセンの2012年綱領は「私たちは、労働を通じて、技術を磨き、品性を高め、識見を啓発することによって、人格の向上と完成を図ります」と記しています。

友愛会が②大正デモクラシーの先駆とされるのは、友愛会の創立日と労働団体という点にあります。友愛会は「明治天皇の崩御で、元号も大正と改まった第1日目」(『日本労働組合物語』)に創立されており、「大正デモクラシー」という言葉に象徴される新しい時代の幕開けを予感させたからです。また、労働組合・労働団体は民主的で自主的なことが要件で、デモクラシーを象徴するものとされているからです。友愛会の創立は、後の吉野作造(鈴木文治の先輩)の提唱した大正デモクラシーの先駆とされるのです。

友愛会が③ユニテリアン・ミッションを具現化したとは、鈴木文治がユニテリアン教会職員であり、創立メンバーの多くが同教会の信者であり、教会のクレイ・マッコーレイ牧師が支えたことで、「友愛会はユニテリアン・ミッションのひとつ」(田村剛教授)とされているからです。ここでユニテリアン・ミッションとはキリスト教の布教・PRではなく、「自由の拡張と社会運動への取り組み」(土屋博政慶大名誉教授、内ケ崎作三郎牧師)です。友愛会は労働運動を通して自由の拡張をめざし、また失業・貧困・格差・不平等などを無くす社会問題に取り組んだのです。

友 愛 会 綱 領大正元年八月一日)

一、我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す

一、我等は公共の理想に従ひ、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す

一、我等は協同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す

コンドルの作品としては「特異な存在」とされたユニテリアン教会・惟一館(現友愛会館)!

今年が没後100年の建築家ジョサイア・コンドル(1852.9.28~1920.6.21)は、その生涯で多くの作品を残しています。都内で現存するコンドル作品には文京区湯島の岩崎邸、港区三田の綱町三井俱楽部、品川区東五反田の旧島津侯爵邸(清泉女子大学本校舎)などがあります。

友愛会誕生の地、ユニテリアン教会・惟一館の建設と同じ1894(明治27)年に作られたのが神田青年会館(YMCA会館)、三菱一号館(現三菱一号館美術館)、海軍省本館です。これらの作品の中でも同じキリスト教会の神田青年会館と比べてみると惟一館は、特異なデザインとされます。

『ジョサイア・コンドル建築図面集』(編集:河東義之)は、惟一館について「和風の外観は、彼の作品の中では特異な存在」と記しています。また、河東義之氏は「和風の外観は、コンドルの意志ではなく、自主性を強調したユニテリアン教そのものの方針に従ったものであった」と記述しています。一方、建築史家の藤森照信氏は惟一館について「和洋折衷のミョウチクリンな建物」と評しています。

この点を明らかにしたのがユニテリアン研究の第一人者、土屋博政氏(慶応義塾大学名誉教授)です。土屋博政氏は惟一館のクレイ・マッコーレイ(1843.5.8~1925.11.25)牧師の1911年10月26日の手紙を読み解き、惟一館をデザインしたのがマッコーレイ牧師であり、そこには「東西宗教文化の融合の理想が込められている」と解説しています。

マッコーレイ牧師の手紙には、「惟一館は私自身の企画とデザインによっています。建築士は、それが1894年に建設されていた時、自分はただマッコーレイさんが描かれたデザインを実行可能な図面にするだけでした、と言って私を褒めて下さいました。ですから惟一館は私たちのミッションの仕事を達成する上で有効な道具になってくれる私の希望の子なのです。」(土屋博政氏訳)と記されていました。

 

J・コンドル没後100年(1920.6.21)、お墓は東京・護国寺に!

今年は英国の建築家で「日本近代建築の父」と呼ばれたジョサイア・コンドル(1852.9.28~1920.6.21)の没後100年で、彼のお墓は東京・護国寺にあります。

コンドルは明治政府に招かれた、いわゆる「お雇い外国人」。工部大学校(現・東京大学工学部)の建築学教授として来日し、鹿鳴館や上野の国立博物館など政府関連の建物を数多く設計しました。また、東京帝大退職後は岩崎邸など主として三菱グループの建物を数多く手がけました。その関係か東京・世田谷の静嘉堂文庫美術館の庭にある岩崎家廟も、コンドルが設計しています。

ジョサイア・コンドルは1894(明治27)年には友愛会館の前身、ユニテリアン教会・惟一館の建設を手がけていますが、この年に彼は三菱一号館美術館や神田青年館(東京YMCA会館)なども設計しています。

コンドル夫妻は100年前の1920(大正9)年6月に相次いで死去しています。妻くめは病に倒れたコンドルの看病による過労で6月10日に63歳で死去し、コンドル本人は脳軟化症で6月21日に死去したとされています。享年67歳。

友愛労働歴史館は2014年にジョサイア・コンドルと山口文象(総同盟が1936年に建設したアパートメントハウス青雲荘・友愛病院の設計者)を取り上げた企画展「コンドルと惟一館、山口文象と青雲荘」(2014.3.10~8.30)を開催しています。