2017年は日本社会党を中心とする片山連立内閣(1947~1948年)が誕生してから70年。その片山内閣で官房長官を務めた西尾末廣(1891~1981)は、日本社会党や民社党を主導した政治家として知られていますが、元々は友愛会・総同盟の労働運動家です。
その西尾末廣は、キリスト教伝道者・社会運動家として知られる賀川豊彦(1880~1960)を、「日本労働運動の母」と呼んでいました。西尾末廣が1962(昭和37)年12月の「賀川全集 月報4」に添付した賀川豊彦追悼文を紹介いたします。
「政治家以上の人」
わが国の労働運動や社会運動は、とくにその初期において、キリスト教の影響をうけることが多かったし、クリスチャソ出身の優れた指導者が輩出して、大きな功績を残している。その中でも、私にとって忘れることのできない人は、安部磯雄氏と賀川豊彦氏である。
両先輩ともに、今の言葉で言えば民主社会主義者であり、議会主義者であった。そして何よりも、徹底した信念の人であった。
賀川さんは、大正七年から十一、二年ごろまでの数年間、関西における労働運動の中心的指導者だった。賀川さんが労働運動に入った動機は深くは知らない。それは多分、神戸の貧民街でのイエス団の運動から生れた必然の発展だったのであろう。また第一次世界大戦のさなか、二年九カ月にわたって米国に遊学し、キリスト教の伝道に従事するかたわら、先進国の労働運動を実地に見聞して帰国した直後のことであることも見逃すわけにはいくまい。
そのころ、私もまた関西にあって、当時の友愛会、のちの日本労働総同盟の大阪連合会の責任者になっていた。自然、賀川さんと私とは労働組合運動の同志として、また同じ友愛会ないし総同盟の幹部として、常時顔を合わせるようになったが、その間、一貫して賀川さんが健異な労働組合主義者であり、民主主義、議会主義を通じて労働階級の地位を向上させ、革命なくしてそのいわゆる「人格的社会主義」を実現しょうとする、今でいえば民主社会主義の思想の持主だったことをなつかしく憶い出すのである。
賀川さんが労働運動に挺身していた時期は、第一次大戦後の激動期で、革命的なサンヂカリズムの思想が一世を風靡していた感があった。今日からみれば妙な話だが、当時の急進的な労働運動者は普選獲得運動にさえ反対した。有産、無産の区別なく選挙権を与えて、勤労者の声を議会に反映させようとする運動に対して、議会否認の立場から反対したのである。議会はブルジョアのものであって、これにプロレタリヤを参加させようとするのは、直接行動による政権奪寂、つまり革命への労働階級の情熱をマヒさせようとするものだというのが、その反対の理由であった。
このような議会否認、普選反対、直接行動謳歌の風潮に対して、賀川さんは敢然として立ち向い、これと闘かった。そして常に、じゅんじゅんとして議会主義を説き、漸進的な労働組合運動の必要を力説した。殊に、私の印象に残っているのは、大会や集会などで激越なアジ演説が会場の空気を支配すればするほど、賀川さんは一層冷静な調子で持論を説き、過激分子の反省を求めたことである。のちに、大正十三年の大会で総同盟は有名な方向転換宣言を行ない、その運動方針を現実主義の方向にあらため、普選獲得運動についても積極的にこれに協力することとなったが、これには賀川さんの努力が大いにあずかって力があったこというまでもあるまい。
その後、サンヂカリズムに代って、マルクス・レーニン主義が盛んになっても、賀川さんはその態度を変えなかった。実に、信念の人だったと思うのである。
賀川さんは、優れたキリスト教の信者であると同時に、その教義の実践者であったが、しかし、いわゆる政治家の部類に入る人ではなかった。既に述べたように、立派な政治的見識と実行力を持っていたが、同時に夢多き詩人であった。生前、賀川さんを政界に出そうとする動きはしばしばであったが、私はいつも反対したものである。賀川さん自身はどう考えていたか知らないが、私にとって賀川さんは政治家以上のものであったからである。(賀川全集 月報4 昭和37年12月第18巻添付)