友愛労働歴史館は先達者のメッセージを読み取り、再発信します!

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〒105-0014 東京都港区芝2-20-12 友愛会館8階

ニュース

友愛会第8周年大会で日本労働総同盟友愛会と改称、1920年10月3~5日!

大正元年8月1日にユニテリアン教会(惟一館は現在の友愛会館)の鈴木文治により創立された友愛会は、「人格の向上をめざす友愛的・人格向上主義的労働団体」としてスタートしている。『総同盟50年史』は友愛会について、「労働者の利益の実現のために戦う指導部というよりは、実質的には出版および演説会、講演等による啓蒙機関、争議調停機関」と記している。

友愛会はその後、棚橋小虎・麻生久・山名義鶴・野坂鉄らが加入して次第に急進化し、労働組合らしくなっていった。名称も労働組合らしく改称した。友愛会は1919(大正8)年10月の第7周年大会で、会名を大日本労働総同盟友愛会と改称する。

100年前の1920(大正9)年10月の友愛会第8周年大会では会名から“大”をとり、日本労働総同盟友愛会と改称。さらに翌1921(大正10)年10月大会で会名から“友愛会”を削り、日本労働総同盟としている(写真は友愛会第8周年大会、1920年10月3~5日、九条市民殿・大阪中之島公会堂)。

会名は会・団体の性格やあり方を反映するものであり、当時の友愛会から総同盟への名称変更は興味深い。因みに“同盟”とは「共同の目的のために同一の行動をとることを約すること」(広辞苑)であり、強い結束をイメージさせる。友愛会の流れを汲む戦後の中央労働団体・同盟が、組織拡大よりも理念や組織体制を優先したため一部の有識者から“排他的”、“原理主義”と揶揄されたが、それは“同盟体”だったからであろう。

友愛労働歴史館の見学にはホテル三田会館の宿泊・デイユースプランをご利用ください!

友愛労働歴史館(友愛会館8階)は友愛会ゆかりの人々や団体を顕彰する活動に取り組んでいます。友愛会関係者に鈴木文治、松岡駒吉、西尾末廣、市川房枝、赤松常子らがおり、ゆかりの人たちに渋沢栄一、安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造、阿部静枝(歌人・社会運動家)、キャロライン・マクドナルド(日本YWCA創立者)らがいます。

また、当館の前身がユニテリアン教会・惟一館(ジョサイア・コンドル設計。現在の友愛会館)であることからユニテリアンゆかりの人々として福澤諭吉、クレイ・マッコーレイ牧師(米国ユニテリアン協会)、村井知至(牧師、英語学者)、沖野岩三郎(牧師)、内ケ崎作三郎(牧師、政治家)、永井柳太郎(政治家)らがいます。

友愛労働歴史館の運営母体は(一財)日本労働会館で、ホテル三田会館(友愛会館2~7階)を経営しています。つまり友愛労働歴史館の運営はホテル三田会館の収益に依存しています。

現在、新型コロナウイルスによるビジネス・旅行の自粛により、ホテル宿泊事業は大きな打撃を受けています。友愛労働歴史館へのご来館、ご見学にはホテル三田会館の宿泊・デイユースプランをご利用ください。参考にデイユースプラン案内チラシを添付いたします。

大政翼賛会結成から80年、社会大衆党も解散・合流して政党政治の終焉!

80年前の1940(昭和15)年10月12日、ナチスの台頭などによる国際的な「一国一党組織」への高まりの中で大政翼賛会(1940.10.12~19456.13)が設立され、「翼賛体制」が確立された。保守政党から社会大衆党までが自発的に解散し、大政翼賛会に合流した。

社会大衆党(総同盟支援の社会民衆党も合流していた無産政党)について梅澤昇平氏(尚美学園大学名誉教授、友愛労働歴史館研究員)は、著書『幻の勤労国民政党―歴史の曲がり角と人間―』で「社会大衆党は、7月にいち早く解党を決め、近衛を担いだ新党運動、つまり大政翼賛会に流れ込んだ。これが引き金となって民政党、政友会など既成政党が雪崩を打って解散した。政党政治に止めを刺したのは社会大衆党であった。消し様もない政党政治の一大汚点をつくった」と記している。

同年2月の斎藤隆夫粛軍演説問題で社会大衆党(当時、麻生久らの日労系が主導権)を除名されていた社会民衆党系の安部磯雄、片山哲、西尾末廣らは、総同盟(松岡駒吉会長)の支援を受けて勤労国民党の結成に動いたが結党禁止になっている。

総同盟も1940年7月に組織解散(写真は解散を決めた総同盟全国代表者会議)に追い込まれており、大政翼賛会の結成は自由と民主主義、労働運動と政党政治に終止符を打った。

 

J・コンドルゆかりの建物などを紹介した「コンドルマップ」を差し上げます!

日本近代建築の父とされ、明治27年にユニテリアン教会・惟一館(友愛会誕生の場所)を設計したジョサイア・コンドル(1852.9.28~1920.6.21)は、今年が没後100年です。

彼はその生涯で数多くの作品を残しています。都内で現存するコンドルの建物には文京区湯島の岩崎邸、港区三田の綱町三井俱楽部、品川区東五反田の旧島津侯爵邸(清泉女子大学本校舎)などがあります。

友愛労働歴史館はコンドル没後100年を記念し、コンドルゆかりの建物やゆかりの場所を案内した「コンドルマップ―没後100年、コンドルの足跡をたどる―」(PDFデータ)を作成しました。

ジョサイア・コンドルに関心のある方、近代建築に興味のある人、歴史散歩が好きな方は、友愛労働歴史館までご一報ください。メール添付で送付いたします。

賀川豊彦『死線を超えて』から100年、大正期最大のベストセラー!

100年前の1920(大正9)年10月3日、賀川豊彦著『死線を超えて』が改造社から出版されました。キリスト教伝道者・賀川豊彦はさまざまな社会改革運動に取り組んだ人物で、労働運動では1921(大正10)年に起きた神戸の川崎・三菱争議などを指導しています。

『死線を超えて』は賀川豊彦の前半生を投影した自伝的な小説とされ、出版されると100万部が売れて大正期最大のベストセラーになりました。『死線を超えて』は何度も復刻され、多くの人々に読まれています。また、映画『死線を超えて』も制作・販売されています。

賀川の一連の著作による印税収入は莫大なものとされますが、彼はその多くを社会運動・労働運動・農民運動・協同組合運動などに寄付しています。総同盟が1930(昭和5年)に友愛会誕生の地、惟一館(旧ユニテリアン教会)を買収し、日本労働会館としたときも賀川豊彦は、日本労働会館建設後援会の一員としてその建設を支えています。日本労働会館建設後援会のメンバーは安部磯雄、賀川豊彦、鈴木文治、新渡戸稲造、吉野作造の5名です。

「愛と協同に生きた、賀川豊彦の足跡を伝える」ため賀川豊彦記念松沢資料館は現在、『死線を超えて』発刊100年記念として『死線を超えて』(復刻刊行会。税込み1540円)と映画DVD『死線を超えて』を販売中です。DVD『死線を超えて』(定価:2750年税込み)は国広富之・黒木瞳出演の映画で、賀川豊彦生誕100年記念事業の1988年に制作されたものです。チラシを参照ください。

賀川豊彦記念松沢資料館 〒156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19 ℡03-3302-2855、Fax03-3304-3599

労働運動・生協運動に生きた井堀繁雄、今日は生誕118年(1902年9月30日)!

戦前、労働運動・農民運動で活躍し、戦後は政治家・生協運動家として知られる井堀繁雄(1902.9.30~1983.7.18)は、明治35年9月30日に福岡県苅田町で生まれています。井堀は1921(大正10)年の川崎・三菱争議に参加し、禁固刑を受けて解雇されますが、同争議を指導したキリスト教伝道者・賀川豊彦を終生、慕っていました。

井堀はその後、上京し、総同盟東京鉄工組合で活躍します。彼の活動拠点は埼玉県川口。ここは戦前からの鋳物の町で、吉永小百合主演「キューポラのある街」で知られています。今は人口60万人を有し、高層マンションが立ち並ぶ埼玉県有数の中核都市です。

井堀繁雄は戦前、川口の鋳物工場で起きた数多くの労働争議を指導しており、それは著書『川口鋳物業に於ける労働運動十年史』にまとめられています(写真は井堀が指導した昭和5年の王子鉄工所争議)。また、彼は日本農民組合総同盟の結成に参加し、埼玉農民運動でも活躍。戦後は日本社会党・民社党の衆議院議員として活躍する一方、生協運動・協同組合運動に取り組んでいます。

友愛労働歴史館は現在、井堀繁雄研究会(代表:梅澤昇平尚美学園大学名誉教授)を設置し、井堀繁雄日記のデジタル化作業や彼の生涯を描いた『社会運動家・井堀繁雄―労働運動・生協運動に生きた生涯―』(仮題)の執筆・編集に取り組んでいます。井堀に興味のある方は前掲書の他、40年前に出版された『友愛春秋―井堀繁雄と、その仕事』(日経事業出版、1980.9.30)をご覧ください。

日本農民組合総同盟(戦前の農民団体)の資料を探しています!

戦前の総同盟(友愛会が改称。戦後の同盟。現在の連合)が関わっていた農民団体、日本農民組合総同盟(大正15年結成)の資料を探しています。

友愛労働歴史館は友愛会・総同盟系の歴史資料館として、①友愛会・総同盟から同盟までの民主的労働運動、②戦前の社会民衆党・社会大衆党から戦後の日本社会党・民社党までの民主的社会主義運動、③ユニテリアン教会惟一館ゆかりの社会運動、に関する各種資料の収集・管理を行っています。

しかし、日本労働会館(旧ユニテリアン教会惟一館。総同盟本部があった建物)は、1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で焼失し、戦前の資料を全て失っています。このため当歴史館は日本農民組合総同盟に関する資料を所有していません。日本農民組合総同盟やその関係者(例えば埼玉の松永義雄)に関する資料はお持ちの方は、ぜひ友愛労働歴史館までご一報ください。原則、写真や紙資料はお借りし、コピーを作成した後、返却いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

所蔵写真で見る第二インター議長・ヴァンデルベルト氏の来日、1930(昭和5)年9月23日!

友愛労働歴史館のある友愛会館の前身は日本労働会館で、さらにその前身は明治27年に建設されたユニテリアン教会・惟一館です。惟一館(日本労働会館)は1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で焼失し、友愛会以来の労働運動・社会運動に関する資料は全て失われました。

現在、友愛労働歴史館が所蔵する資料は戦後、個人・団体から寄贈されたものが中心です。所蔵写真の一つに1930(昭和5)年9月23日、社会民衆党本部前で来日中のベルギー社会党委員長・第二インター議長のヴァンデルベルト氏夫妻を歓迎する1枚があります。

写真にはヴァンデルベルト氏夫妻と安部磯雄、赤松克麿、小池四郎、赤松常子、赤松明子、阿部静枝・阿部温知夫妻らの社会民衆党幹部が写っています。総同盟の松岡駒吉(総同盟会長、衆議院議長など)も前列にいます。

社会民衆党(安部磯雄委員長・片山哲書記長)は友愛会・総同盟が支援した無産政党で1926(大正15)年に結党し、総同盟から鈴木文治・松岡駒吉・西尾末廣らが党役員に就任しています。社会民衆党はその後、中間派無産政党と合同し、社会大衆党へと発展。戦後は日本社会党(右派)・民社党へと続く、民主的社会主義政党の源流です。

社会民衆党機関紙「社会民衆新聞」の当時の記事「社民館の建設とその維持に就て」には、「和田操君の好意と努力によつて完成」したと記されています。和田操とは和田印刷所などを経営していたクリスチャンで社会民衆党員、東京市議などを務めた人物。戦後、民社党から衆議院議員を5期務めた和田一仁(1924.7.30~2010.12.8。クリスチャン、民社党副書記長、西尾末廣秘書など)の父です。

鈴木文治が内外社会問題調査所を設立し、『内外社会問題調査資料』を刊行、1930(昭和5)年8月!

友愛会創立者・鈴木文治は90年前の1930(昭和5)年2月、衆議院選挙に大阪4区から社会民衆党公認候補として出馬し落選。その後、第14回国際労働会議の日本代表として渡欧し、ILOの会期中副議長を務め、8月に帰国している。

帰国直後、鈴木は内外社会問題調査所(協調会館内)を設立し、『内外社会問題調査資料』(発行編集兼印刷人亀井貫一郎)を刊行する。印刷所は和田操(クリスチャン、社会民衆党員、東京市議会議員、安部磯雄や片山哲に師事。民社党衆議院議員・和田一仁の父)の和田印刷所。

内外社会問題調査所は「創立趣旨」で、「資本と労働との関係を中心として発生する種々の社会問題を主とし、産業、経済、政治その他の各方面に亘って、世界各国の状勢を、最新の材料に基いて調査研究すると共に、その調査資料を普く迅速に同好の氏に頒布することにより、我が国の国際的地位を正確に認識するの一助たらしめたい」と記している。

また「目的」で、「本所は内外社会問題の調査をなし、次の諸項の如き事業を行う」として、「1.内外の社会問題並に社会運動の調査研究、2.我国の社会問題並に社会運動の海外紹介、3.内外の政治経済社会其他時事問題の批判紹介、4.調査資料の発行並にパンフレットの刊行」を挙げている。

『内外社会問題調査資料』第1号は1930(昭和5)年8月に非売品として刊行され、1944(昭和19)年4月の第603号まで刊行されている。鈴木文治が関係するこの種の出版物が、戦時下の1944(昭和19)年4月まで刊行されていることに驚く。

『内外社会問題調査資料』は1999年に㈱皓星社から復刻されている。

友愛会関東大会で平沢計七の弾劾決議、平沢ら純労働者組合を結成、友愛会最初の組織的分裂!

1920(大正9)年8月31日に開催された友愛会第1回関東大会で、城東連合会会長・平沢計七(1889~1923)は左派アナキストグループにより弾劾された。

平沢計七は鈴木文治友愛会会長に近い穏健派で、友愛会本部の出版部長として機関誌『労働及産業』や『友愛婦人』などの編集を担当していた。しかし、大学出でインテリ急進左派の麻生久・棚橋小虎らと対立し、当時は城東連合会会長を務めていた。

この頃、友愛会内外でサンジカリストが急速に勢力を拡大しており、城東連合会にも進出していた。彼らは穏健派の平沢計七を弾劾し、査問委員会にかけた。平沢はその後、友愛会城東連合会の組合員約300名を率いて脱退し、純労働者組合を結成した。純労働者組合の結成は、友愛会創立以来、最初の組織的分裂であった。

平沢計七が自らの組織を「純労働者組合」と命名したところに、労働者・平沢計七の想いが伺える。『総同盟50年史』第1巻は、純労働者組合の「宣言」に言及し、「宣言に、『宣伝、執行等に知識階級の力を尊重なすものであるが、総ての決議権は純労働者自らが握る』と表明したことは、平沢らが麻生ー棚橋ラインにいかに煮湯を飲まされたかをもの語っている」と記述している。

平沢計七はまた、労働劇の先駆者・劇作家としても知られており、彼の作品をまとめた『一人と千三百人/二人の中尉・平沢計七先駆作品集』が、講談社文芸文庫の一冊として本年4月に出版されている。平沢計七の研究者・大和田茂氏が「解説」、「年譜」、著者目録」を担当している。