大正元(1912)年8月1日、鈴木文治がユニテリアン教会・惟一館(現友愛会館)で創立した友愛会は、その人格承認の訴えが当時の労働者の支持を得て、次第に組織を拡大していきました。鈴木文治は大正4(1915)、5年に渡米し、米国労働総同盟AFLの大会運営などを目の当たりにします。また、鈴木はAFLの組合規約、綱領、機関誌、パンフレット、さらにはギャベル(小槌)、ユニオン・レベル(組合員証)、バッチ(記章)などを持ち帰りました。やがて友愛会にAFL流の組織体制、組合運営が導入され、婦人部が設置されるなど組織は充実・強化されていきます。
そして大正8(1919)年8月30日~9月1日の友愛会第7周年大会で、名称を大日本労働総同盟友愛会に改称しました。この大会は「友愛会創立以来最も意義ある大会であった。それは従来の会の組織にも、制度にも態度、精神にも、革命的な変化を与えるものがあった」(『労働運動20年』鈴木文治著)とされています。8月30日はこの名称変更から100年です。
翌大正9(1920)年5月2日、大日本労働総同盟友愛会は日本初のメーデーを主導。そして同年10月3~5日の友愛会第8周年大会(写真)で「大」を削除し、日本労働総同盟友愛会と改称。さらに翌大正10(1921)年10月1~3日の友愛会創立第10年大会で「友愛会」を削除し、日本労働総同盟となります。ここに名実伴う「総同盟」が誕生し、その名称は戦後まで使われることになります。
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