大正元年8月1日にユニテリアン教会(惟一館は現在の友愛会館)の鈴木文治により創立された友愛会は、「人格の向上をめざす友愛的・人格向上主義的労働団体」としてスタートしている。『総同盟50年史』は友愛会について、「労働者の利益の実現のために戦う指導部というよりは、実質的には出版および演説会、講演等による啓蒙機関、争議調停機関」と記している。
友愛会はその後、棚橋小虎・麻生久・山名義鶴・野坂鉄らが加入して次第に急進化し、労働組合らしくなっていった。名称も労働組合らしく改称した。友愛会は1919(大正8)年10月の第7周年大会で、会名を大日本労働総同盟友愛会と改称する。
100年前の1920(大正9)年10月の友愛会第8周年大会では会名から“大”をとり、日本労働総同盟友愛会と改称。さらに翌1921(大正10)年10月大会で会名から“友愛会”を削り、日本労働総同盟としている(写真は友愛会第8周年大会、1920年10月3~5日、九条市民殿・大阪中之島公会堂)。
会名は会・団体の性格やあり方を反映するものであり、当時の友愛会から総同盟への名称変更は興味深い。因みに“同盟”とは「共同の目的のために同一の行動をとることを約すること」(広辞苑)であり、強い結束をイメージさせる。友愛会の流れを汲む戦後の中央労働団体・同盟が、組織拡大よりも理念や組織体制を優先したため一部の有識者から“排他的”、“原理主義”と揶揄されたが、それは“同盟体”だったからであろう。
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