本日(3月4日)は、成瀬仁蔵(1858.8.2~1919.3.4)の没後100年。成瀬仁蔵は山口県山口市の出身のキリスト教牧師、教育者で、日本女子大学校(日本女子大学。1901年)の創設者として知られ、大正8(1919)年3月4日に死去しています。享年60歳。3月6日に告別式が行われましたが、これは「成瀬の遺志を尊重し、僧侶・牧師を招かず、葬儀ではなく告別式と称した。以後、『告別式』の語が一般に用いられるはじめとなった」されます。
成瀬仁蔵は1890(明治23)年、ユニテリアニズムの傾向が強い米国のアンドーバー神学校に留学しますが、この頃、村井知至(後にユニテリアン教会牧師。日本最初の社会主義理論書『社会主義』の執筆者)と知りあい、女子高等教育の抱負を語っています。成瀬は日記に、「吾天職、教員にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり」と記しています。
1901(明治34)年4月、43歳の成瀬仁蔵は日本女子大学校を創設しますが、村井知至はその創設を助けるとともに、日本女子大の教授に就任しています。
成瀬仁蔵は1912(明治45年)年、渋沢栄一・姉崎正治・島田三郎・新渡戸稲造・今岡信一良らと帰一協会を設立しています。帰一協会は「諸宗教・道徳などが、同一の目的に向かって相互理解と協力を推進すること」を目的とした団体とされ、ユニテリアン教会のクレイ・マッコーレイ、今岡信一良も参加しています(成瀬仁蔵の写真は『成瀬仁蔵著作集』第一巻より転載)。
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