友愛労働歴史館の企画展「全文協結成から60年、その今日的意義を探る」(2015.12.07~2016.05.31)では、民主的労働運動の理論的指導者とされる川崎堅雄(1903.12.18~1994.05.19)の文化運動やレクリエーション活動に関する発言を紹介しています。
川崎堅雄は「戦前の共産党、近衛新体制論者、戦後の民主的労働運動の理論的指導者」(伊藤隆氏)と紹介された人物で、同盟副書記長などを歴任しています。彼は川崎は1903(明治36)年に高知県で生まれ、昭和2年4月に東京電灯(現、東京電力)に入社。翌3年1月、関東電気労働組合と日本労農党に入党します。同年3月、幾つもの労働争議に参加し、また“帝都暗黒陰謀事件”などにより東京電灯を解雇され、東京から追放されます。昭和4年に日本共産党に入党しますが、昭和8年に獄内で共産党から脱党。その背景には20歳前後に身についた人道主義、理想主義の精神があったとされます。
戦後、勤労時報社を創設し、『勤労時報』(翌22年に『組合運動』と改題)を発行。同誌は労組民主化運動推進のための理論雑誌として発行されました。昭和26年9月、総評民主化運動(第二次民主化運動)の拠点、民労研(民主主義労働運動研究会)に参加。1953(昭和28)年2月、民労研は民労連(全国民主主義労働運動連絡協議会)へと発展、川崎は事務局に入ります。1954(昭和29)年4月、全労(全労会議、全日本労働組合会議)の結成に参加し、書記次長に就任。その後、1964(昭和39)年の同盟結成に参加し、副書記長・情報室長・論説担当・顧問などを歴任します。
川崎堅雄は戦後、主として全労会議・同盟の機関紙誌に民主的労働運動の基礎理論と実践論を中心した論文、評論を発表。その200万字にも上る一連の著述は、「わが国労働運動の経典」(『川崎堅雄著作選集』・川崎堅雄著作選集刊行委員会)とされています。
また、川崎は民主的労働運動と文化運動やレクリエーション活動についても、積極的に発言しています。「全文協」展では、川崎堅雄の以下の言葉を紹介しています。①は『川崎堅雄遺稿集』の「労働運動への14歳の夢」で紹介されているもので、彼が14歳の時に感銘を受け、後に労働運動を志す切っ掛けとなった言葉。②~⑤は『川崎堅雄著作選集』からの引用で、文化運動やレクリエーション活動に関する川崎の熱い思いが述べられています。
①「労働運動とは、労働者の生活改善のためにする文化運動である」
②「労働運動とは、労働者が人間疎外、職場砂漠を克服するためにする文化運動である」
③「文化運動の基調はヒューマニズムであり、人間尊重。それは同盟の理念である」
④「人間解放が労働運動の魂であるとすれば、労働運動と人間の心を豊かにし、人間の精神を高揚、
燃焼させることを目的とする文化運動とは、密接に重なり合っている」
⑤「全文協の文化運動と民主的労組の労働運動は、同じ基調、同じ土俵に立ち、人を育み、成長させる」
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