社会主義研究会(後の社会主義協会、社会民主党)は1898(明治31)年10月10日頃、ユニテリアン教会・惟一館でユニテリアンの村井知至・佐治実然・神田佐一郎・豊崎善之助・岸本能武太・新原俊秀・片山潜・河上清・高木正義により設立されました(推定)。
社会主義研究会の例会は惟一館で1898(明治31)年10月18日にスタートし、第11回例会(1900年1月28日)まで続きます。9名の設立メンバーの一人片山潜(1859~1933)は、1899(明治32)年3月19日の第5回例会で「フエルヂナンド・ラサールの社会主義」をテーマに報告を行っています。
今日では日本を代表する労働運動家・社会主義者とされる片山潜は、1859年に岡山県で生まれる。1881(明治14)年に岡山師範学校を中退し、上京。その後、アメリカに渡り、苦学して学位を修め、1896(明治29)年に帰国、神田三崎町にキリスト教社会事業の拠点としてキングスレー館を設立したクリスチャンでした。帰国後、片山潜はユニテリアン教会機関誌『六合雑誌』に寄稿を始め、1896(明治29)年5月発行の『六合雑誌』第185号に「米国に於ける社会学の進歩」を寄稿。同188号には「社会学の綱領」が掲載されます。
彼のラサールに関する連載論文「独逸社会共和党の創立者フェルジナンド・ラサル(其一)」が掲載されるのは1896(明治29)年12月の『六合雑誌』第192号。以下、同194号「独逸社会共和党の創立者フェルジナンド・ラサル(其二)」、同195号「同、(其三)」、同196号「フェルジナンド・ラサルの社会主義」、同197号「フェルジナンド・ラサルの社会主義(承前)」、そして『六合雑誌』第198号に「フェルジナンド・ラサルの社会主義(完結)」が掲載されます。
片山潜が社会主義研究会で「フエルヂナンド・ラサールの社会主義」をテーマに報告を行った背景には、『六合雑誌』に発表されたこれらの論文の存在があったのです。
社会主義研究会の頃、クリスチャンとして知られる片山潜ですが、政府の弾圧もあり、1914(大正3)年には日本を離れ、アメリカに亡命。後にロシア革命(1917年)の影響もあって共産主義・マルクス主義に転向します。1921(大正10)年にソ連に渡り、コミンテルンの幹部となり、1933(昭和8)年にモスクワで死去しています。享年73歳。
クリスチャンであった片山潜が、亡命を余儀なくされ、孤独な共産主義者として異国で生涯を終えた(西尾末広著『大衆と共に』)ことに、時代と運命と痛ましさを感じます。しかし、同じ社会主義研究会メンバーで、生涯をキリスト者・学者・政治家として生きた安部磯雄と比較するとき、片山潜は“背教者”に堕落したと言わざるを得ません(写真は岡山県にある片山潜記念館と記念碑)。
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