キリスト教伝道者、社会運動家として知られる賀川豊彦は、1917(大正6)年に友愛会に参加し、労働運動家として大きな足跡を残しています。その活動期間は1921(大正10)年までの5年間でしたが、労働運動に与えた影響は大きく、「日本労働運動の母」(西尾末廣)と呼ばれました。賀川豊彦が労働運動に残したものとして、以下の点が挙げられます。
1.「賀川イズム」から「健全なる労働組合主義」へ
賀川豊彦の労働運動理論は「賀川イズム」と呼ばれ、当時の労働運動に大きな影響を与えました。それは自由労働組合主義、漸進主義、合法主義、非暴力主義、人格中心主義、産業民主主義(賀川豊彦記念松沢資料館・杉浦秀典副館長)から成るものでした。戦前期の総同盟は「賀川イズム」の背骨(はいこつ)を継承し、「健全なる労働組合主義」を確立して、現実主義・漸進主義の労働運動を推進しました。これは戦後、「自由と民主主義、労働組合主義」として引き継がれています。
2.川崎・三菱争議の教訓と労働運動の発展
1921(大正10)年に起きた史上空前の労働争議である神戸の川崎・三菱両造船所争議は、労働側の惨敗で終わり、指導した賀川豊彦が労働運動を去る切っ掛けとなりました。しかし、それは「表面の敗北であり、労働者が階級意識にめざめたこと、運動の真理を社会に諒解せしめ」(賀川豊彦)たのです。また、争議は多くの教訓(工場管理宣言、他)を残し、さらに解雇された労働者は新たな地で労働運動を発展させたのです。例えば川崎造船を解雇された井堀繁雄はその後、埼玉県川口を拠点に労働運動や共済活動に取り組み、戦後は衆議院議員として活躍しました。
3.労働運動・社会運動への資金援助、日本労働会館の建設支援
賀川豊彦は『死線を超えて』などの著作による莫大な印税収入があり、資金面で労働運動や社会運動を支えました。また、1930(昭和5)年に総同盟が惟一館(旧ユニテリアン教会。買収後、日本労働会館。現在の友愛会館)を買収し、日本労働会館としたとき賀川豊彦は安部磯雄、新渡戸稲造、吉野作造らとともに日本労働会館建設後援会を作り、惟一館買収を資金面で支えたのです。
コメントを残す