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東京山の手大空襲で日本労働会館・友愛病院(現友愛会館)が焼失、5月23日!

東京山の手大空襲で日本労働会館・友愛病院(現友愛会館)が焼失、5月23日!

友愛労働歴史館の運営母体である(一財)日本労働会館(旧財団法人日本労働会館)は戦前、①日本労働会館(明治27年、総同盟本部会館、現在の友愛会館)、②アパート青雲荘・友愛病院(昭和11年)、③大井友愛館(大正13年)、④神楽坂食堂(東京市設食堂を昭和13年に引受け)を経営していました。

太平洋戦争末期の昭和19(1944)年から昭和20(1945)年にかけ、東京は相次いで米軍B29の空襲を受けました。ウィキペディアは「1944(昭和19)年11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。」と記しています。

昭和20年5月23日深夜から24日未明の「東京山の手大空襲」により、東京・芝にあった日本労働会館本館(旧ユニテリアン教会・惟一館、日本近代建築の父ジョサイア・コンドル設計)、アパート青雲荘・友愛病院(モダニズム建築家・山口文象設計)、そして東京・神楽坂の神楽坂食堂が焼失しました。また、これより先の4月14日の川崎大空襲で、神奈川県・川崎にあった第二友愛病院・第二青雲荘が失われています。

『財団法人日本労働会館60年史』は、「1945年8月15日、こうして終戦を迎えた財団法人日本労働会館は、その事業基盤を失い、財産として残ったのは本館の土地、内部が焼けた病院の建物、大井友愛館と地方の川口分館、因島分館、それに西宮分館の焼けた跡地だけであった。」と記しています。写真右奥はジョサイア・コンドル設計の日本労働会館(旧ユニテリアン教会・惟一館)、左手前は山口文象設計のアパート青雲荘(2階、3階)・友愛病院(1階)です。

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