日本労働運動の源流、友愛会(大正元年8月1日創立)を顕彰する活動に取り組んでいる「友愛会創立を記念する会」(高木剛会長)は、毎年8月1日に友愛会創立を記念する会(記念パーティー、記念労働講座)を開催しています。今年も記念パーティーは8月1日(木)12時から友愛会館9偕大会議室で開催されました。
また、これに先立ち友愛会創立記念労働講座が、当館研修室で開催されました。今回のテーマは「渋沢栄一と鈴木文治・友愛会」で、45分のミニ講演。報告者は当歴史館の間宮悠紀雄事務局長が務めました。以下、少し長くなりますが、講演レジュメを転載いたします。
「渋沢栄一と鈴木文治・友愛会」 友愛労働歴史館 間宮悠紀雄
1.渋沢栄一と鈴木文治の出会い―大正4年、米カ州の排日問題が契機―
①米カリフォルニア州を中心に、米国労働総同盟AFL主導の移民排斥運動が起きる。
日米の知識人らが協議し、帰一協会の安部磯雄・添田寿一・渋沢栄一らが動く
②渋沢栄一と鈴木文治の出会い―大正3年秋からから4年春ころに何回か面談―
③鈴木文治と吉松貞弥の渡米―大正4.6.1・友愛会主催の全国労働者大会、渋沢栄一
も激励。6.17、渋沢が送別会を開く。以後、渋沢は鈴木文治と友愛会を激励援助
- 渋沢栄一と鈴木文治が絶交―協調会の結成が契機―
①1919(大正8)年、労資協調を目的とする協調会設立、徳川家達・渋沢栄一ら
②渋沢は鈴木に参加要請。鈴木は6カ条を要求し拒絶、二人の公的関係終わる
③協調会への批判:「協調会は政府及び資本家の親類筋」(鈴木文治)、「協調会は労働運動を抑圧する目的を以て官僚及び資本家の共同して設立したもの」(総同盟)
3.協調会の方向転換―渋沢栄一・添田敬一郎と「協調会宣言」―
①渋沢栄一が協調会の内部刷新―大正9年論文「労働問題の根本義」、役員の更迭―
「労働組合の存在を前提とし、①労資の人格の尊重、②労資の対等、③階級闘争の排除を柱とする「新しい協調主義」の理念」「温情主義を踏みこえて、協調主義の理想のもとに産業の基礎を資本家と労働者との人格的協働に求めた」(『添田敬一郎傳』)
②添田敬一郎(内務官僚)の協調会入り―社会連帯主義を掲げ、協調会を方向転換―
「吾人の期するところは、協調の精神的基礎たる社会連帯の思想をあくまで鼓吹するにある。協調の静態は社会連帯の思想であり、その動態は社会政策の実行である」「「対等なる人格の相互尊重は協調の第一要素である」(協調会機関誌『社会政策時報』、大正10年)
③「協調会宣言」―人間は常に最終の目的、人格の尊重が協調主義の根帯―
4.総同盟と協調会の関係―1919(大正8)年~1931(昭和6年)―
①鈴木文治は協調会の方向転換を評価―『労働運動20年』に見る―
②総同盟は初期協調会との関係を維持―大正8年~昭和6年―
・総同盟の協調会館(講堂、図書館)の利用
・協調会の労働争議調停(例:野田労働争議)
・昭和5年に鈴木が総同盟会長辞任、昭和6年に添田敬一郎が去り渋沢栄一が死去
③戦後、友愛会系労組がタブーとした「労資協調」「企業内組合」
・「労資協調」に込められた非難や揶揄、協調会を連想させる歴史的経緯
・それ故、友愛会系労組は「労使協力」「労使協議」などの言葉を使用してきた
・「企業内組合」は産別にも中央労働団体にも加盟しない、企業内で完結した組合