友愛労働歴史館は先達者のメッセージを読み取り、再発信します!

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ニュース

労働者の祭典メーデー 5月1日!

今日51日は労働者の祭典、メーデーです。メーデーは広辞苑によれば「1886年、アメリカ労働者の8時間労働制要求の示威運動が期限」とされています。日本では1920(大正9)年5月2日(日)、友愛会・総同盟系労働組合を中心に、東京・上野公園で開催されています(写真は大正12年・大阪でのメーデー。西尾安裕氏提供)。詳しくは連合(日本労働組合総連合会)HPをご覧ください。

今年の連合第89回メーデー中央大会は4月28日(土)、東京・代々木公園で「働く者のための働き方改革」をスローガンに開かれ、約4万人(主催者発表)が参加した、とされています。なお、連合は「メーデー近代化」を掲げ、メーデーを毎年4月末土曜日に開催しています。

NHK高校講座「日本史」に記述された友愛会の意味、それは「労働者の人格承認の要求」!

 1912(大正元)年に鈴木文治らが創立した友愛会は、日本労働運動の源流とされ、現在の連合(日本労働組合総連合会)へと発展しています。

 このため友愛会は今日、多くの教科書や辞書に掲載・紹介されています。しかし、限られた字数・行数の中、事実だけの簡潔な紹介に止まることが多いようです。また、岩波書店「広辞苑」のように友愛会は、「初めは共済・修養機関の色彩が強かった」と説明されることが一般的です。しかし、このような記述・解説は、友愛会の意味や理念について誤解を招く嫌いもあります。

 このような中、NHK高校講座「日本史」(2006年)は、「37 大正期の社会」の「友愛会の結成」(同書80頁)で、以下のように記述しています。これは友愛会の意味が「労働者の人格承認の要求」にあったと喝破しており、注目される記述です。

 「明治から大正に改元された直後の1912(大正元)年81日、キリスト教の伝道にあたりながら社会問題に関心を寄せていた鈴木文治は、のちに日本の労働組合運動の中核となる友愛会をわずか15人の参会者で立ち上げた。

 当時、労働者が「一般社会」から「職工風情」と蔑まれ、「社会の最下等動物」のごとく見なされていたことに対し、労働を国家や文明を支える「神聖」なものとしたうえで、労働者自身の「相愛扶助」「識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩」「地位の改善」によって差別と偏見を取り除いていこうとしたのである。それは、工場主や資本家に対して、同じ人間であることを認めてもらいたいという人格承認の願いでもあった。友愛会は結成から4年余で会員数が2万人に達し、人格承認の要求がいかに多くの働く人びとの心をとらえていたかがわかる。お互いに対等・平等な人間として認めあうことの大切さに、人びとは気づき始めていたのである。」NHK高校講座「日本史」(2006年)・「37 大正期の社会」・「友愛会の結成」)

 

友愛会館のツツジを楽しむ会が開かれました、4月23日~25日!

友愛労働歴史館が入居している友愛会館(旧ユニテリアン教会・惟一館)の屋上にはツツジが植栽されており、毎年、期間限定で開放されています。今年の「ツツジを楽しむ会」は、4月23日(月)~25日(水)12:10~13:10で行われました。

友愛会館屋上から都心方向を見ると屋上のツツジ越しに東京タワーや芝増上寺が見え、反対側に目を転じれば東京湾に架かるレインボーブリッジ(写真参照)などを見ることができます。

片山内閣を支えた学者・政治家、波多野鼎農林大臣!

1947(昭和22)年に組閣された日本社会党中心の片山連立内閣、その片山内閣を支えた人々の中に3名の学者・政治家がいます。農林大臣を務めた波多野鼎(18961976年)は、愛知県生まれ。1920年に東京帝国大学法学部を卒業し、満鉄東亜経済調査局に勤務。在学中、東大新人会メンバーで、社会思想社同人となっています。1

 1922年に同志社大学教授となり、大阪労働学校の教師を務め、西尾末廣らと交流。1930年に九州大学法学部助教授、同教授を務めており、教え子の一人に重枝琢巳(元同盟書記長)がいます。

 波多野鼎は戦後の1946年、九州経済調査協会を創立し、会長になります。翌47年に福岡選挙区で参議院議員に当選し、片山内閣では平野力三罷免後の農林大臣に就任。その後、中央大学教授、社会党中央執行委員、参議院予算委員長などを務め、1951年に民主社会主義連盟(後の民主社会主義研究会議、現在の政策研究フォーラム)の創立に参加し、事務局長に就任しています。1960年の民社党結党にも参画しています。

 また、波多野は1953年に中京大教授を務める傍ら名古屋で中部経済研究会、労働文化研究所を創立し、労働運動の民主化、民主的労使関係の確立に大きな役割を果たしています。例えば彼は労働組合幹部や経営者を対象に講演活動を行っており、その活動の一端を『波多野先生を偲ぶ』(神崎製紙株式会社。1977年刊行)で見ることができます。

 波多野鼎が1976年に死去した時、民主社会主義研究会議(民社研)は月刊誌『改革者』(昭和5112月号)で特集「追悼・波多野鼎先生」を組んでいます。重枝琢巳元同盟書記長は「恩師波多野先生を悼む」の中で、「王子製紙の大争議を契機として、日本の新しい時代を築くために、労働運動の民主化、民主的労使関係の確立という大事業に挺身」したと記し、さらに「労働文化研究所を名古屋に創設され、労働運動、労使関係の民主化に大きな貢献を続けられた」と述べています。

片山内閣を支えた学者兼政治家の森戸辰男文部大臣!

 1947(昭和22)年に組閣された日本社会党中心の片山連立内閣。この片山内閣を支えた3名の学者・大臣の一人に、森戸辰男(文部大臣、学者、教育者、文化功労者、衆議院議員)がいます。

片山内閣で文部大臣を務めた森戸辰男(1888.12.231984.5.28)は、広島県福山市生まれ。東京帝国大学を卒業後、東京帝大経済学科助教授。1920(大正9)年の「森戸事件」で有罪となり、出獄後、大原社会問題研究所に勤務。大阪労働学校、神戸労働者学校に関わり、大阪で活躍していた西尾末廣(友愛会・総同盟の活動家。後に政治家、片山内閣の官房長官)らと親しくしています。

 1945年に日本社会党へ参加し、1946年の衆議院選挙で当選。片山内閣・芦田内閣で、文部大臣を務めています。森戸辰男は1949年の社会党再建大会で起きた「森戸・稲村論争」の当事者で、本論争は右派を代表する森戸辰男の国民政党論と、左派の稲村順三の階級政党論が激突したものです。

 森戸辰男は1950年に政界を去り、広島大学初代学長に就任。その後、中央教育審議会会長などを歴任しています。

 

4月8日は松岡駒吉生誕130年記念日、7月から企画展「松岡駒吉」を開催します!

 4月8日は、総同盟会長、全繊同盟会長、衆議院議長などを務めたクリスチャン松岡駒吉の生誕130年記念日、そして8月14日が松岡の没後60年記念日です。このため友愛労働歴史館は松岡駒吉の生誕130年・没後60年を記念し、企画展「松岡駒吉一戦前期、一筋に労働者の利益を守った男―」(2018.7.612.21)を7月6日(金)より開催します。

 同企画展では松岡駒吉の70年の生涯を紹介するとともに、労働者の利益を守るために彼が実践した現実主義労働運動について解説します。彼は「戦前のきわめて困難な時代にただ一筋に現実の労働者の利益を守るために、地道な努力をつづけてきた人物」(『松岡駒吉伝』)とされています。また、今年は松岡駒吉が主導した日本労働運動史に残る野田醤油争議から90年に当たります。

 企画展「松岡駒吉」は、①松岡駒吉の生涯―188848日~1958814日―、②野田醤油争議とその教訓―野田争議から90年―、③労働者の利益を守る現実主義労働運動の実践、の三部構成です。

 

ゴールデンウイークのお泊りは「せごどん」の地、ホテル三田会館!

 友愛労働歴史館は友愛会系労働組合の歴史資料館として、友愛会創立100周年の201281日に新装オープンしました。当歴史館があるこの場所(旧三田四国町)は、いまNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」で注目されている旧薩摩藩上屋敷跡です。

 友愛労働歴史館がある友愛会館の前身は、明治27年のユニテリアン教会・惟一館(J・コンドル設計)で、米国からユニテリアンを招聘したのは慶応義塾の福澤諭吉らです。後にこの地で友愛会(現在の連合)や社会主義研究会(後の社会民主党)が創立され、ここは日本労働運動発祥の地、そして日本社会主義運動発祥の地とされています。

 友愛労働歴史館はオープン以来、多くの人に利用されてきました。この友愛労働歴史館の運営を資金面で支えているのが、ホテル三田会館(友愛会館2階~7階にあるシングル中心のビジネスホテル)です。

 428日(土)からのゴールデンウイークは、ホテル三田会館に泊まり、友愛労働歴史館を見学してください。また、近くには芝増上寺や芝大神宮などの有名な観光スポットもあります。インターネットで「ホテル三田会館」(東京都港区芝2-20-12)と検索してください。

 

片山内閣を支えた学者兼政治家の鈴木義男司法大臣!

政策研究フォーラム発行の月刊誌『改革者』4月号に論文「片山哲と片山内閣を支えた人々―企画展「片山哲」から見た鈴木義男、森戸辰男、波多野鼎―」(友愛労働歴史館事務局長 間宮悠紀雄)が掲載されています。その一部(「日本国憲法と鈴木義男」)を転載いたします。

 日本国憲法と鈴木義男

 片山内閣で司法大臣を務めた鈴木義男(1894.1.171963.8.25)は、福島県白河市生まれ。第二高等学校、東京帝国大学卒業後、1924年に東北帝国大学教授になる。1931年に病気で辞職し、弁護士登録。1934年に法大教授となる。1945年に日本社会党の結成に参加。党中執、文教部長となり、憲法草案の作成に関与している。1946年の衆議院選挙で福島2区から当選し、片山内閣・芦田内閣で司法大臣・法務総裁を務めている。以後、衆議院議員に7回当選。後に専修大学教授、同学長となる。1960年の民社党結党に参加し、1961年に民社党国会議員団長。

 鈴木義男については近年、「日本国憲法第25条の生存権規定の成立に大きな役割を果たした」「平和主義に寄与した」としてNHKテレビで紹介され、またシンポジウムなどが開かれている。鈴木義男をOBに持つ東北学院大学は、憲法公布から70年の2017年に公開講演会「鈴木義男と平和憲法」(2月)と、公開シンポジウム「平和憲法と鈴木義男」(9月)を開催している。

 鈴木義男に光が当たるのは歓迎すべきこと。しかし、「平和憲法」に焦点を絞りすぎると結果として彼を矮小化することにもなりかねない。クリスチャン、弁護士、政治家として生きた鈴木義男を見つめる必要があろう。

片山内閣を支えた人々(学者、労働運動家、農民運動家など)!

友愛労働歴史館は現在、企画展「戦後民主化のリーダー 片山哲」(2018.1.5~6.29)を開催中で、日本社会党から片山内閣に入閣し、支えた人々の紹介も行っている。

 閣僚を務めた学者・政治家として鈴木義男(司法大臣、法学者、弁護士、教育者、衆議院議員)、森戸辰男(文部大臣、学者、教育者、文化功労者、衆議院議員)、そして波多野鼎(農林大臣、学者、参議院議員)がいる。

 また、農民運動や労働運動の出身者として平野力三(農林大臣、農民運動家。後に罷免され、波多野鼎が農相を引き継ぐ)、水谷長三郎(商工大臣、労働運動家)、米窪満亮(労働大臣、海員組合出身の労働運動家)、西尾末廣(内閣官房長官、友愛会以来の労働運動家)がいる。

 さらに片山内閣を政務官として支えた人たちに永江一夫(文部政務次官、労働運動家)、冨吉榮二(商工政務次官、農民運動家)、土井直作(労働政務次官、労働運動家)がおり、また官僚出身の曾禰益(内閣官房次長、後に民社党書記長)がいる。また、松岡駒吉(総同盟会長)は、衆議院議長として片山内閣を支えた。

1948(昭和23)年3月10日の片山内閣終焉から70年!

310日といえば1945(昭和20)年310日の東京(下町)大空襲、311日といえば2011311日の東日本大震災を思い浮かべます。しかし、310日は1948(昭和23)年310日の片山内閣終焉でもあります。

 1947524日に成立した日本社会党首班の片山連立内閣は、戦後の混乱期、食糧難、インフレ、労働攻勢の中で苦闘し、1948210日に総辞職して310日に終焉を迎えます。

 この片山内閣総辞職の直接の契機となったのが、社会党内左派の鈴木茂三郎予算委委員長による予算案否決でした。これは予算委員会の休憩中で与党議員不在の中、鈴木委員長が職権で強行開催し、自由党(当時)や共産党ら野党議員の出席する中、政府予算案を否決したものです。

一般にはこの社会党左派の造反(予算案否決)が、片山内閣総辞職の原因とされます。しかし、後に片山哲首相と西尾末廣官房長官の間で原因を巡り、食い違いが表面化します。1976年に朝日新聞「論壇」で起きた、いわゆる「片山・西尾論争」ですが、ここでは詳細は省きます。

短命に終わった片山内閣に興味と関心のある方は、友愛労働歴史館の企画展「戦後民主化のリーダー 片山哲」(2018.1.56.29)をご覧ください。