1947(昭和22)年に組閣された日本社会党中心の片山連立内閣、その片山内閣を支えた人々の中に3名の学者・政治家がいます。農林大臣を務めた波多野鼎(1896~1976年)は、愛知県生まれ。1920年に東京帝国大学法学部を卒業し、満鉄東亜経済調査局に勤務。在学中、東大新人会メンバーで、社会思想社同人となっています。1
1922年に同志社大学教授となり、大阪労働学校の教師を務め、西尾末廣らと交流。1930年に九州大学法学部助教授、同教授を務めており、教え子の一人に重枝琢巳(元同盟書記長)がいます。
波多野鼎は戦後の1946年、九州経済調査協会を創立し、会長になります。翌47年に福岡選挙区で参議院議員に当選し、片山内閣では平野力三罷免後の農林大臣に就任。その後、中央大学教授、社会党中央執行委員、参議院予算委員長などを務め、1951年に民主社会主義連盟(後の民主社会主義研究会議、現在の政策研究フォーラム)の創立に参加し、事務局長に就任しています。1960年の民社党結党にも参画しています。
また、波多野は1953年に中京大教授を務める傍ら名古屋で中部経済研究会、労働文化研究所を創立し、労働運動の民主化、民主的労使関係の確立に大きな役割を果たしています。例えば彼は労働組合幹部や経営者を対象に講演活動を行っており、その活動の一端を『波多野先生を偲ぶ』(神崎製紙株式会社。1977年刊行)で見ることができます。
波多野鼎が1976年に死去した時、民主社会主義研究会議(民社研)は月刊誌『改革者』(昭和51年12月号)で特集「追悼・波多野鼎先生」を組んでいます。重枝琢巳元同盟書記長は「恩師波多野先生を悼む」の中で、「王子製紙の大争議を契機として、日本の新しい時代を築くために、労働運動の民主化、民主的労使関係の確立という大事業に挺身」したと記し、さらに「労働文化研究所を名古屋に創設され、労働運動、労使関係の民主化に大きな貢献を続けられた」と述べています。